2012年1月23日月曜日

What is the "practical English" ?

以下、twitter からの抜粋。
確かにそうだと思ったので記録する。


「使える英語」というのはどこで「使える」のでしょう。道を聞かれたときのためだけに使える英語を真剣に学ぶのは悲しすぎます。ボクは他者とのコミュニケーションというより、自己形成のために語学を勉強してる気がします。少なくとも外国人に道聞かれたら英語使わず、地図描いてあげます。
関 正生 (予備校講師)


これを見て、どう思いますか?

2012年1月18日水曜日

ごめん

この一言ってなかなか言えない自分。
素直じゃないってよく言われる。


「ごめん」っていうためには、勇気がいる。
思うに、その勇気を出すのをためらっているのかもしれない。
そんな自分がなんか恥ずかしくって情けない。

しかも、面と向かっていうのがもっと恥ずかしい。
恥ずかしいから、「ごめん」っていうのをためらう。
ためらうから、どんどん関係が悪化する。



だから、今日は「ごめん」って言おうと思う。

2012年1月16日月曜日

ベクトル

他人とベクトルを合わせることって難しいと思う。


たとえば、みんなで何かを協力するとき。
自分のベクトルはこっち向きだけど、相手のはあっち向き。


昔、養老孟司がTVでこんなことを言ってた。

「他人とのベクトルの保ち方は違うほうがいい。
たとえば、ベクトルの向きが同じ方向なら、強いほうに依存してしまい弱いほうは楽をする。
真逆なら、強いほうに無理強いされ、結局は何もやらなくなってしまう。
向きが違うベクトルなら、お互いが干渉しあうこともないし、
必要な時に力を合わせれば、強力な力の合成ができる。」


確かにそうだって思った言葉の一つ。
ただ、「必要な時に力を合わせれば・・・」って部分にこの難しさは集約されているはず。

つまり
全く違うアイデアと自分のアイデアをいかに合体させるか?
どうやってお互いの良さを引き出しあうか?

みたいな部分がすごく難しい。
日常でもこんな状況は必ず存在するし、人間なら誰しも体験することだろうと思う。
思うに、双方の描く「目的・目標」が一致すれば、必ずしも難しいこととは限らない。
到達点が一緒なら、たとえ上り方が違っても同じ場所につくからである。

逆に、「目的・目標」が違う人と協力していくことはすごく難しい。
なぜならば、こういう場合、たいてい双方の意見は全く違うからである。
そして、大体これらはのモチベーションの相違に原因がある。
最終的には、同じ到達点につくことはまずない(・・・気がする)。


自分の今までの経験上、そういうことが多かった。
あくまで自分の意見だから、この記事を見た人が同じ意見だとは思わない。
この意見に対して、他人との比較で○や×を決めるつもりはない。
ただ、自己反省のもと、「○○だから××したい」みたいに考えを改めることをしたい。


たいてい、この場合、自分一人で怒ってしまい、場に嫌な空気を流してしまう。
良くも悪くも、きっと一生懸命なのかもしれない。
昨日もそうだった。
勝負ごとに負けるのは嫌いだから、たとえ遊びであっても負けたくない。
昨日の試合はそういう意味で勝ちたかったのに、チームメイトに対して腹を立てた。
何に対してかというと、モチベーションの違い。
結局、自分一人でプスプスと怒ってしまって、場に悪い空気を流す。



この先に待つのは、その人と疎遠になる。
これじゃぁ、ダメだとほんとに思う。



そして、もう27年も生きてきたにもかかわらず
こういう場合の自己解決法がいまだに見つからない。
いや、見つからないというより、「見つけようとしない」のほうが正しいのかも・・・!?
もうすぐ30。もう少し大人な対応ができることを目標にしたい。




と、昨日のフットサルで思ってしまいました。

2012年1月11日水曜日

すべては「聞く・話す」から。

人権・同和学習の一環で、
地域の保幼小中高合同の勉強会があった。

結論を言えば、満足度は半分ぐらい。




<メモより抜粋>

人権同和学習とは事実と実践を通じて学習する
→1人を大切にする、必ず訳を聞く、パラダイムシフト、生きる力を養う
相手の目的・目標を尊重する
他人を自分に置き換えて話を聞く
自分の思いを記録する
当たり前は個人差がある
見かけの事象から、その背景を推理する。(背景を大切にする)
人が共感できるということは、その内容に対して自分自身の課題であると感じている証拠。
「親は教師以上に子どもに対して真剣」
「白・黒の一方的な決めつけでなく、灰色があってもいい」
教育活動は全て「子ども」を原点として活動する
積極的に言葉の共有化をしていく
face to faceのコミュニケーションを重視して他人と接する






一番勉強になったのは、最後の10分。
この10分に今回の価値があったような気がする。


「差別」ってなんですか?
「やさしさ」ってなんですか?
それを踏まえて、「仲間」ってなんですか?

これらの問いに対して、はっきりと答えられるものって
きっとないと思うし、逆にないから常に考えて行動しないといけない。

差別や人権の問題を解決するキーワードの1つって
自分が思うに、「共感」じゃないかって思う。
共に感じあえるから、理解しあえる。
理解しあえないから、自分は相手と違うんだという差別感が生まれる。

自分と相手は同一の人間じゃないから、違って当然なのに、
その当たり前のことすらわかってないように見えるし、
そういうことに気が付きにくい現状が今あると思う。


「自分とは異なる人間といかに生活していくか」
これって、人権とか差別の問題以前に
「人」が社会性をもって生きていく以上、影のように付きまとう事実。
つまり、「生きる力」を養っていかないとダメなのでしょう。


タイトルにある、「すべては『聞く・話す』から」とあるのは
自分が大事にしている「人権感覚の軸」
そして、昨日の勉強会での総括で助言者の先生がおっしゃった一言でもある。

きっとこの先もデジタル化は進む一方だろうから、
アナログ的手法は風化することは想像に容易い。
それにともなって、他人と共感する瞬間も変化していくだろうし、
一瞬の感動も激減するはずだと思う。
こうした時代の潮流の中にあって、道徳教育ってますます難しくなると思う。


だからこそ、余計に「聞く・話す」というコミュニケーションの手段として
当たり前だと思うことを常に意識して他人と接していかなければならないし、
そうしたコミュニケーションでのみ、本当の他人との「共感」が生まれると思う。
共に感じあえるからこそ、友となり、仲間になれるんだと思う。

そういう意味において、人と付き合う手段って結構単純なのかもしれない。
ただ、自分とは違う人である以上、分かり合う難しさはあるとは思う。

2012年1月4日水曜日

新年のあいさつとして。

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。




この2012年の目標というか自分の合言葉を決めようと思う。



「前進(漸進)」


去年は何もわからずとにかくもがいてたけど
今年も何も変わらんと思う。
変わらんことがいいこともあれば、悪いこともあると思う。
その良し悪しを見定め、自分なりに前進していきたいと思う。




今年は自分の中で大きなチャレンジの年にしたい。
自分の不甲斐なさからくる「後悔やムカつき」を
今年は1つも味わいたくない。
 だから、たとえ少しでも前進したい。
そして、前進の度合いは、自己判断でなく他者判断にしたい。
そういう「自分に甘い」部分を今年は直さないといけないと思う。

努力とか根性とか、自分が学生の頃にモットーとしてたことを
もう1回思い出して生活したい。
平和な1年にしたいけど、多少の怒りがあってもいい。
怒りのパワーを上手に活用したい。


そして、教採にチャレンジしたい。
今年で必ず合格できるように、少し遅めだけど今から頑張りたい。
やっぱり、自分は先生しかできないと思う。
きちんとした先生じゃなくてもいい、「先生」として頑張りたい。
「英語なんて・・・」って思った時もあったけど、
やっぱり教科指導ができてやっと普通の先生として存在できる。
そこの付加価値は、その人の個性とか価値観で決まると思う。
それはあくまでも付加価値であり、そこを勝負の中心にしても無意味だろう。
去年の自分はそこに主眼を置き、そこを磨くことに一生懸命だったけど、
それってあまりにも無意味で、教師という職業を軽視してたんだろうね。

10月ぐらいに気づき始めて、11月に違和感を覚え、12月で認識した。


自分は外国語(英語)の教師として生徒と対峙すべき。
いや、すべきというか、「そう」しなければ、教師を辞めるべきだと思う。
だから、英語の勉強は必ず継続させないといけない。
毎日どれぐらいするかは、今考えるところがあるけど、
少なからず、毎年英語に関する資格にチャレンジしていかなければいけないと思う。
TOEIC、TOEFL、IELTS、英検・・・

だから、今年は英検の準1級を取りたいと思う。
TOEICやTOEFLもいいけど、まずは英検にチャレンジしたい。


 「人間を磨く」っちゅーことは、きっと付録なんだと思う。
磨けるものなら磨いてるだろうしね。
きっと能動的なものじゃなく、受動的なものなはず!
 生徒のためではなく、まずは自分のために。
自分のために頑張るから、生徒のために頑張れる、と思う。





・・・はい。
つまるところ、もっと頑張れ!ってことやな。