人権・同和学習の一環で、
地域の保幼小中高合同の勉強会があった。
結論を言えば、満足度は半分ぐらい。
<メモより抜粋>
人権同和学習とは事実と実践を通じて学習する
→1人を大切にする、必ず訳を聞く、パラダイムシフト、生きる力を養う
相手の目的・目標を尊重する
他人を自分に置き換えて話を聞く
自分の思いを記録する
当たり前は個人差がある
見かけの事象から、その背景を推理する。(背景を大切にする)
人が共感できるということは、その内容に対して自分自身の課題であると感じている証拠。
「親は教師以上に子どもに対して真剣」
「白・黒の一方的な決めつけでなく、灰色があってもいい」
教育活動は全て「子ども」を原点として活動する
積極的に言葉の共有化をしていく
face to faceのコミュニケーションを重視して他人と接する
一番勉強になったのは、最後の10分。
この10分に今回の価値があったような気がする。
「差別」ってなんですか?
「やさしさ」ってなんですか?
それを踏まえて、「仲間」ってなんですか?
これらの問いに対して、はっきりと答えられるものって
きっとないと思うし、逆にないから常に考えて行動しないといけない。
差別や人権の問題を解決するキーワードの1つって
自分が思うに、「共感」じゃないかって思う。
共に感じあえるから、理解しあえる。
理解しあえないから、自分は相手と違うんだという差別感が生まれる。
自分と相手は同一の人間じゃないから、違って当然なのに、
その当たり前のことすらわかってないように見えるし、
そういうことに気が付きにくい現状が今あると思う。
「自分とは異なる人間といかに生活していくか」
これって、人権とか差別の問題以前に
「人」が社会性をもって生きていく以上、影のように付きまとう事実。
つまり、「生きる力」を養っていかないとダメなのでしょう。
タイトルにある、「すべては『聞く・話す』から」とあるのは
自分が大事にしている「人権感覚の軸」
そして、昨日の勉強会での総括で助言者の先生がおっしゃった一言でもある。
きっとこの先もデジタル化は進む一方だろうから、
アナログ的手法は風化することは想像に容易い。
それにともなって、他人と共感する瞬間も変化していくだろうし、
一瞬の感動も激減するはずだと思う。
こうした時代の潮流の中にあって、道徳教育ってますます難しくなると思う。
だからこそ、余計に「聞く・話す」というコミュニケーションの手段として
当たり前だと思うことを常に意識して他人と接していかなければならないし、
そうしたコミュニケーションでのみ、本当の他人との「共感」が生まれると思う。
共に感じあえるからこそ、友となり、仲間になれるんだと思う。
そういう意味において、人と付き合う手段って結構単純なのかもしれない。
ただ、自分とは違う人である以上、分かり合う難しさはあるとは思う。
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